2015年03月30日 (月) 22:39 | 編集
村山氏からエアボンベを直接仕入れすることになってから数ヶ月後、
村山氏から大きな封筒が届きました。
中を開けると、新しいブランド、ストラトスの案内でした。
そこで、初めて村山氏が元・ケルビムのチーフビルダーをしていたことを知ったのです。
当時はオーダーフレームはほとんどケルビムに依頼していましたので
何の抵抗も無く代理店になりました。
そして、更に数ヵ月後? 数年後?
いつごろだったかすっかり忘れましたが、ある月のバイシクル誌に
ユテクという溶接機を販売するという広告が載りました。
それが、村山氏の広告だったのです。
早速
「フレームは無理でもキャリアなどを作ってみたいので、
もし、教えていただけるなら溶接機を購入したい」
と、電話してみました。
すると、簡単にOKしていただけましたので
東京に用事があったときに相模原まで足を伸ばし、
溶接機を購入すると同時にやり方を教えていただいたのです。
仙台に帰ってからは記憶を頼りに溶接の練習を毎日繰り返し行いました。
当時はメールなどという便利なものが無かったので、質問したいことをFAXで送らせてもらいました。
いわば、フレームビルドの通信教育です。
ただ、FAXだけではどうしても理解できないことが沢山出てくるので
サイクルショウの帰りなどに相模原に足を伸ばして
教えていただくことを繰り返しました。
この流れは、今でも変わりありません。
変ったのはFAXでのやり取りがメールになり、
さらにアイフォーンのフェイスタイムという無料電話に進化したことです。
今思い出すと、面白いのは、当時、仙台市内の同業者からは
村山氏の通信教育を受けていることを信じてもらえなかったことです。
直接、同業者から言われたわけではありませんが
いろんなメーカーの営業マンがやってきては
そういう情報を流して行くので知りえたのです。
それはともかくとして、最近でも長い休みがあると出かけて行って、
新しい冶具を見せてもらったり更なる溶接のテクニックを見せてもらったりして
帰って来ます。
そういえば、桜子も弟子の一人です。
「ほら、村山さんは火口を少し斜めにするとやりやすいとおっしゃってたじゃないの」
なんて、村山さんの話を横で聞いていた桜子から指摘されたこともありました。

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村山氏から大きな封筒が届きました。
中を開けると、新しいブランド、ストラトスの案内でした。
そこで、初めて村山氏が元・ケルビムのチーフビルダーをしていたことを知ったのです。
当時はオーダーフレームはほとんどケルビムに依頼していましたので
何の抵抗も無く代理店になりました。
そして、更に数ヵ月後? 数年後?
いつごろだったかすっかり忘れましたが、ある月のバイシクル誌に
ユテクという溶接機を販売するという広告が載りました。
それが、村山氏の広告だったのです。
早速
「フレームは無理でもキャリアなどを作ってみたいので、
もし、教えていただけるなら溶接機を購入したい」
と、電話してみました。
すると、簡単にOKしていただけましたので
東京に用事があったときに相模原まで足を伸ばし、
溶接機を購入すると同時にやり方を教えていただいたのです。
仙台に帰ってからは記憶を頼りに溶接の練習を毎日繰り返し行いました。
当時はメールなどという便利なものが無かったので、質問したいことをFAXで送らせてもらいました。
いわば、フレームビルドの通信教育です。
ただ、FAXだけではどうしても理解できないことが沢山出てくるので
サイクルショウの帰りなどに相模原に足を伸ばして
教えていただくことを繰り返しました。
この流れは、今でも変わりありません。
変ったのはFAXでのやり取りがメールになり、
さらにアイフォーンのフェイスタイムという無料電話に進化したことです。
今思い出すと、面白いのは、当時、仙台市内の同業者からは
村山氏の通信教育を受けていることを信じてもらえなかったことです。
直接、同業者から言われたわけではありませんが
いろんなメーカーの営業マンがやってきては
そういう情報を流して行くので知りえたのです。
それはともかくとして、最近でも長い休みがあると出かけて行って、
新しい冶具を見せてもらったり更なる溶接のテクニックを見せてもらったりして
帰って来ます。
そういえば、桜子も弟子の一人です。
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2015年03月27日 (金) 20:17 | 編集
今日はなんだかいろいろなことが起きて
フレーム製作がすすまなかったので
今野仁氏とのことをもう少し書いてみようと思います。
今野仁氏が、仙台にもフレームビルダーが一人くらいいてもいいよね、
と話したことは書きました。
じゃあ、オレがやってみるか、と思ったことも書きましたが
だからといってすぐに何かを始めたわけではありません。
溶接は工業高校時代に実習で電気溶接をやったことぐらいで
ロウ付けなどはしたことがありませんでした。
師匠の村山氏のことはこの頃はまったく知りませんでした。
出会いはもっとあとになります。
当時、千葉の松戸にシクロウネという店がありました。
そこは、今野仁氏の弟の義氏がやっている店で
3連勝というフレームを作っていることでも有名な店でした。
ある日、あるお客様が3連勝のMTBが欲しい、といって来られました。
それまで全然取引のない相手でしたが、売ってくれるかどうか電話をしてみました。
電話に出たのは多分、ソフトな声の感じから牧野氏だと思います。
それはともかく、3連勝のフレームを売ってもらうことには快諾を得ることができました。
しかし、MTBは当時ハシリのもので、在庫はなく受注生産だったのです。
このため、納期が2ヶ月とのことで、お客様はアラヤに決められましたので
3連勝はキャンセルになりました。
ただ、この当時、M16という画期的な携帯エアボンベを卸販売していましたので
これを数本仕入れしたのです。
ブームだったトライアスリートを中心に随分と買っていただきました。
ところが、なぜか、シクロウネがこのボンベの販売をやめてしまったのです。
どうしても欲しければ販売元から直接仕入れをしてくれ、と言われました。
それまでは、シクロウネの製品だとばかり思っていたのでびっくりしました。
当時、シクロウネではエアロハンドルなども自作して販売していたのです。
アメリカのプロファイルとの特許争いで裁判沙汰になったのもその頃です。
それはともかくとして、言われたとおり、
サイクルパーツムラヤマというところに電話してみました。
すると、想像以上に簡単に卸販売を快諾してもらうことが出来ました。
(注: 酔っ払ってきましたので、文面そのた乱れあってもご容赦くださいませ)
これが、師匠の村山氏との出会いです。
でも、まだ彼がケルビムのチーフビルダーだったことは知りませんでした。
以下、酔っ払って疲れたので、また暇なときに続きます。

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フレーム製作がすすまなかったので
今野仁氏とのことをもう少し書いてみようと思います。
今野仁氏が、仙台にもフレームビルダーが一人くらいいてもいいよね、
と話したことは書きました。
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だからといってすぐに何かを始めたわけではありません。
溶接は工業高校時代に実習で電気溶接をやったことぐらいで
ロウ付けなどはしたことがありませんでした。
師匠の村山氏のことはこの頃はまったく知りませんでした。
出会いはもっとあとになります。
当時、千葉の松戸にシクロウネという店がありました。
そこは、今野仁氏の弟の義氏がやっている店で
3連勝というフレームを作っていることでも有名な店でした。
ある日、あるお客様が3連勝のMTBが欲しい、といって来られました。
それまで全然取引のない相手でしたが、売ってくれるかどうか電話をしてみました。
電話に出たのは多分、ソフトな声の感じから牧野氏だと思います。
それはともかく、3連勝のフレームを売ってもらうことには快諾を得ることができました。
しかし、MTBは当時ハシリのもので、在庫はなく受注生産だったのです。
このため、納期が2ヶ月とのことで、お客様はアラヤに決められましたので
3連勝はキャンセルになりました。
ただ、この当時、M16という画期的な携帯エアボンベを卸販売していましたので
これを数本仕入れしたのです。
ブームだったトライアスリートを中心に随分と買っていただきました。
ところが、なぜか、シクロウネがこのボンベの販売をやめてしまったのです。
どうしても欲しければ販売元から直接仕入れをしてくれ、と言われました。
それまでは、シクロウネの製品だとばかり思っていたのでびっくりしました。
当時、シクロウネではエアロハンドルなども自作して販売していたのです。
アメリカのプロファイルとの特許争いで裁判沙汰になったのもその頃です。
それはともかくとして、言われたとおり、
サイクルパーツムラヤマというところに電話してみました。
すると、想像以上に簡単に卸販売を快諾してもらうことが出来ました。
(注: 酔っ払ってきましたので、文面そのた乱れあってもご容赦くださいませ)
これが、師匠の村山氏との出会いです。
でも、まだ彼がケルビムのチーフビルダーだったことは知りませんでした。
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2015年03月24日 (火) 19:38 | 編集
この仕事を始めるきっかけとなったのは
ケルビムの今野仁氏との会話でした。
当時、うちではオーダーフレームというと全てケルビムに依頼していました。
ある年、自分の乗っているフレームの不具合を直してもらおうと
町田の工場まで直接持って行きました。
サイクルショーが開催されていたので、それを見ている間に直してもらおうと考えたのです。
そのときに
「仙台にフレームビルダーがいないけど一人くらいいても良いよね」
と言われました。
「Dという店の息子がイタリアで修行しているので帰ってきたらやると思います」
と、答えると
「あ、それならKのところにいるけど、多分やらないと思うよ」
とのこと。
ショウを見終わり、修理の終わったフレームを受け取って仙台に帰る新幹線の中で
考えました。
Dがやらないなら俺がやるか、と。

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ケルビムの今野仁氏との会話でした。
当時、うちではオーダーフレームというと全てケルビムに依頼していました。
ある年、自分の乗っているフレームの不具合を直してもらおうと
町田の工場まで直接持って行きました。
サイクルショーが開催されていたので、それを見ている間に直してもらおうと考えたのです。
そのときに
「仙台にフレームビルダーがいないけど一人くらいいても良いよね」
と言われました。
「Dという店の息子がイタリアで修行しているので帰ってきたらやると思います」
と、答えると
「あ、それならKのところにいるけど、多分やらないと思うよ」
とのこと。
ショウを見終わり、修理の終わったフレームを受け取って仙台に帰る新幹線の中で
考えました。
Dがやらないなら俺がやるか、と。

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2015年03月23日 (月) 18:57 | 編集
なにか、よく分からないうちに選手が通り過ぎ、
よく分からないけれど地元の選手がびりっけつだった、
というレースを子供が面白いと思うわけがありません。
今の言葉であらわすなら
「はあっ?」
じゃないでしょうか?
マラソンのように100人近い選手達が次々に通り過ぎて行くのと違い、
あっという間に誰もいなくなってなにか面白いのでしょうか・・・・・・?
もっと、観客を喜ばせる工夫をする必要があると現在のレース運営を見ても私は考えます。
たとえば安比で行われた全日本選手権ロードレース。
新城選手や別府選手などのヨーロッパで活躍している選手が参加しているレースでも、
見ているのは関係者ばかりです。
初めて観にいったときはスタート地点がどこかも分からず
探すのに一苦労しました。
コースの案内板も無かったのではないでしょうか?
まだまだポピュラーではありませんねえ。
以前、東北グランプリロードレースというのを開催する団体に所属していました。
それは、一般公道を走るレースで、一時的にしろ通行止めをされる方々は
興味が無ければ迷惑なだけに過ぎないと思います。
そこで提案をしました。
1個10円くらいのお菓子を用意して、
レースの1時間くらい前にスピーカーで
「これからロードレースが来ます。 応援のお子様たちにはお菓子をプレゼントします」
と、ふれて回ったらどうでしょうか? と。
1000個用意しても1万円です。
これで子供が見に来てくれて、
通行止めをされる沿道沿いの方々の気持ちが緩んでくれたら、と考えたのです。
面白いね、とは言われたけれど却下されました。
現在、あの団体は消滅してしまいました。
残念。

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よく分からないけれど地元の選手がびりっけつだった、
というレースを子供が面白いと思うわけがありません。
今の言葉であらわすなら
「はあっ?」
じゃないでしょうか?
マラソンのように100人近い選手達が次々に通り過ぎて行くのと違い、
あっという間に誰もいなくなってなにか面白いのでしょうか・・・・・・?
もっと、観客を喜ばせる工夫をする必要があると現在のレース運営を見ても私は考えます。
たとえば安比で行われた全日本選手権ロードレース。
新城選手や別府選手などのヨーロッパで活躍している選手が参加しているレースでも、
見ているのは関係者ばかりです。
初めて観にいったときはスタート地点がどこかも分からず
探すのに一苦労しました。
コースの案内板も無かったのではないでしょうか?
まだまだポピュラーではありませんねえ。
以前、東北グランプリロードレースというのを開催する団体に所属していました。
それは、一般公道を走るレースで、一時的にしろ通行止めをされる方々は
興味が無ければ迷惑なだけに過ぎないと思います。
そこで提案をしました。
1個10円くらいのお菓子を用意して、
レースの1時間くらい前にスピーカーで
「これからロードレースが来ます。 応援のお子様たちにはお菓子をプレゼントします」
と、ふれて回ったらどうでしょうか? と。
1000個用意しても1万円です。
これで子供が見に来てくれて、
通行止めをされる沿道沿いの方々の気持ちが緩んでくれたら、と考えたのです。
面白いね、とは言われたけれど却下されました。
現在、あの団体は消滅してしまいました。
残念。

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2015年03月22日 (日) 11:58 | 編集
ようやく自転車を操ることができると、今度は大人車に挑戦した。
父親の自転車を借りて三角乗りをやってみると、
自分でも信じられないくらい簡単にできた。
ただ、足が届かないのでサドルに跨って乗ることはできなかった。
それ後の記憶はあまり無いが、随分と遠くまで行ってみたような気がする。(完)
という経験から、初めて乗る子供用自転車は
つま先が地面に付くものを勧めている。

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父親の自転車を借りて三角乗りをやってみると、
自分でも信じられないくらい簡単にできた。
ただ、足が届かないのでサドルに跨って乗ることはできなかった。
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という経験から、初めて乗る子供用自転車は
つま先が地面に付くものを勧めている。

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2015年03月21日 (土) 20:06 | 編集
今日はクラシカルロードの製作に一日を費やしたが、
たいした進展も無かったので、回想録を続けてみようと思います。
私の父親は鉄道員でした。
高校を卒業するまでは国道13号線の近くの鉄道官舎に住んでいました。
小学生のある夏の日、道路の近くで遊んでいると、
パトカーや自衛隊の車が上げる砂煙
(当時の13号線は、国道でも舗装されてなく砂利道でした)
に続いて自転車の一団が通り過ぎました。
どうやら、自転車の競争らしく、近所の自転車屋のおじさんの話で
東北を1周するレースらしいことが分かりました。
それが、ツールド東北の前身になった東北1周ロードレースだったのです。
集団が過ぎてしばらくすると赤いヘルメットを被った二人の選手が走って来ました。
二人は残念なことに地元山形県の選手達で、最後尾でした。
東北1周ロードレースは駅伝方式で1日2レース、6日間で行われていました。
1レースには各県から2名、合計12名の選手が走っていましたが
何といってもすごいのは使用する自転車がロードレーサーではなく、
泥除けや荷台を外した実用車に限られていたことでした。
今のママチャリよりももっと重い運搬用の自転車のレースだったのです。
(つづく・・・多分)

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たいした進展も無かったので、回想録を続けてみようと思います。
私の父親は鉄道員でした。
高校を卒業するまでは国道13号線の近くの鉄道官舎に住んでいました。
小学生のある夏の日、道路の近くで遊んでいると、
パトカーや自衛隊の車が上げる砂煙
(当時の13号線は、国道でも舗装されてなく砂利道でした)
に続いて自転車の一団が通り過ぎました。
どうやら、自転車の競争らしく、近所の自転車屋のおじさんの話で
東北を1周するレースらしいことが分かりました。
それが、ツールド東北の前身になった東北1周ロードレースだったのです。
集団が過ぎてしばらくすると赤いヘルメットを被った二人の選手が走って来ました。
二人は残念なことに地元山形県の選手達で、最後尾でした。
東北1周ロードレースは駅伝方式で1日2レース、6日間で行われていました。
1レースには各県から2名、合計12名の選手が走っていましたが
何といってもすごいのは使用する自転車がロードレーサーではなく、
泥除けや荷台を外した実用車に限られていたことでした。
今のママチャリよりももっと重い運搬用の自転車のレースだったのです。
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2015年03月20日 (金) 19:28 | 編集
今日はたいしたこともしなかったので、回想録を書きます。
一番最初に自分の自転車を手に入れたのは小学校の2年生くらいのとき。
父に買ってもらった青いフレームの24インチ車だった。
当時は子供用の自転車なんて高くて買えなかったので
近所の自転車屋に頼んで大人用を子供用に小さくしてもらったものだった。
それでも子供用の自転車を持っている家なんて、ほとんど近所には無かったので
それなりの値段はしたんだろうな、とつくづく父に感謝している。
考えてみると、改造車とはいえ、りっぱなオーダー車だったのだなあ、と思う。
しかし、問題はそこからで、足が地面に届かず、何度練習しても
恐怖感が先にたち、一人で乗ることが出来るようになったのは
小学4年生になって、つま先が地面に付くようになってからだった。
(つづく)

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一番最初に自分の自転車を手に入れたのは小学校の2年生くらいのとき。
父に買ってもらった青いフレームの24インチ車だった。
当時は子供用の自転車なんて高くて買えなかったので
近所の自転車屋に頼んで大人用を子供用に小さくしてもらったものだった。
それでも子供用の自転車を持っている家なんて、ほとんど近所には無かったので
それなりの値段はしたんだろうな、とつくづく父に感謝している。
考えてみると、改造車とはいえ、りっぱなオーダー車だったのだなあ、と思う。
しかし、問題はそこからで、足が地面に届かず、何度練習しても
恐怖感が先にたち、一人で乗ることが出来るようになったのは
小学4年生になって、つま先が地面に付くようになってからだった。
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